米財務省は安全保障の観点から対米投資を規制する対米外国投資委員会(CFIUS)の届け出を免除する「ホワイト国」のリストを公表した。2月13日施行の外国投資リスク審査近代化法(FIRRMA)の新規則から適用される。昨秋、日本は改正外為法を成立させ、米国と歩調を合わせてきたが、選ばれなかった。当面、米国の重要技術に投資する企業は審査対応せざるを得ない。
■広がる審査対象
ホワイト国に選ばれたのは、オー…
2020/1/23 20:00
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54662520R20C20A1000000/
★1が立った時間 2020/1/23 20:00
前スレ
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1579845288/
>>1
安倍チョンのケツ舐め外交失敗w
>>1 日本に巣食う鮮人侵食が問題過ぎる、敵対の反日種族主義確定済み
あとは特亜三国制限しない教育界や法曹界他左巻き過ぎる体制は否めない。
>>1
選ばれた国を見るとファイブアイズのオリジナルメンバー。
政権が変わる前のオーストラリアや今のカナダの移民状況など、微妙な部分はあるが、
諜報機関もスパイ防止法も無い日本が入るのは無理だわな。
外為法の改正程度では話にならん。
>>1
そりゃそうだろ。でたらめな韓国と距離を置いてないからな。(´・ω・`)
断交すればホワイト国になれるかもよ。しらんけど。
>>33
違うやろ?日本にある売国企業が問題なのよ。
南の横流しは日本にある企業も関係してると考えるのが普通。
北の核施設に日本製遠心分離機がズラッと、 てのは日本の国内に問題ある。
>>1
[ アメリカの、西進主義に汚れた過去 ](シルバー回顧録
アメリカは以下に述べる彼等の理念なき、征服欲、支配欲、所有欲を正当化するために、
西進主義/西部開拓は Manifest Destiny ( マニフェスト ・ デスティニィ、 神から授けられた明白な使命 )であると称し 、
それがあたかも キリスト教に基づく歴史の原理であるかの如く、正当性を主張しました。
(1)、涙の道
アメリカの植民地主義、侵略主義に 汚れた過去 について言及すれば、
英国から アメリカに渡った移住者や、ヨーロッパ諸国からやって来た移民にとって、最大の関心事は土地の獲得でした。
先住民族である インデアンを騙して土地を次々に奪い取り、
反抗する者達を容赦なく虐*ては西へ西へと開拓 ( 先住民の視点からすれば侵略 ) を進めました。
インデアンは嘘をつかない 、という言葉がありますが、
白人達の アメリカ合衆国や地方政府は インデアンと結んだ条約、協定を
300 回以上 も平然と破り彼等の土地を手に入れました。
>>37
第 7 代の アンドリュー ・ ジャクソン大統領 ( 1767~1845 年 )は
インデアン を東部諸州から 一掃すると称して1830 年に強制移住法を作り、
全 インデアンを、北米大陸を南北に流れ平野部を東西に分ける ミシシッピー川
( セントルイス、メンフィスから、メキシコ湾岸の ニューオルリーンズに至る流れ )よりも
西側に立ち退かせることにより、 彼等の全ての土地を手に入れました。
騎兵隊に追い立てられて先祖伝来の土地を離れた何千、何万もの インデアンが
強制移住のために ミシシッピー川の西側へと歩いた道は、その当時 涙の道 とも言われました。
ジョージア州から強制移住させられた チェロキー族 に例をとると、
1 万 2 千人のうち 5 ヶ月間の旅で 4 千人 ( 33 パーセント ) が病気と飢えで死亡しました。
ところが折角移住した ミシシッピー川の西側にも肥沃な土地や石油資源があることを政府が知ると、
4 年後には、さらに西の 西経 95 度 に境界を移動させ、
1858 年に ミネソタが州に昇格するのに伴い 更に百 マイル西方 に境界を移動されました。
>>39
インデアンの死体埋葬
その後は開拓以外にも西部では ボナンザ を
目当てにして原住民の土地を奪い続け、
1864 年に起きた サンドクリークの虐殺では女性子供を含めて インデアンを 一度に 368 名も虐*ました 。
1890 年 12 月に サウス ・ ダコタ州の インデアン居住地で起きた ウーンデッド ・ ニーの虐殺では、
女性子供を含む 200 名 の インデアンが第 7 騎兵隊により虐*れ、 遺体は3 日間放置された後穴に投げ入れられ埋められました。
米国はインデアンの土地を全て奪い取り、人里離れた狭い地域に インデアン居留地 を作って隔離し、
居留地に住むことを条件に食糧を支給し、生活保護を与えて現在に至っています。
部外者が自由に居留地を訪れることは禁止されていますが、
先住民としての誇りを奪われ飼い*同然の生活に希望を失った彼等の多くは、アルコール依存症になって暮らしています。
>>40
(アメリカによる侵略の軌跡
明治テロの 80 年前( 1776年 )に独立した アメリカは、
大西洋岸の 13 州から西部開拓と称して次第に領土を拡大し、
当時 メキシコ領であった テキサス の土地を メキシコから奪い、自国の領土化を図ったことから メキシコと戦争になりました。
その後 メキシコ大統領の サンタ ・ アナ 将軍を捕虜にして テキサスの独立を承認させた上、
1848 年の講和条約により、更に ニューメキシコ と、 カリフルニア を買収することに同意させました。
なお メキシコとの戦争の際に テイラー将軍率いる米国軍がメキシコ領内に侵攻したのは、
米国議会が メキシコに宣戦布告をする 48 時間も前のことでした。
日本の真珠湾攻撃を宣戦布告なしの、 卑劣な攻撃 とか 騙し討ち などと米国は非難しましたが、
メキシコに対して卑劣な攻撃をして勝利を納めた将軍こそ、後に第 12 代の アメリカ大統領となった、
ザカリー ・ テイラー でした。米国民は 卑劣な男 を大統領に選んだのです。
>>43
西部開拓が太平洋岸に到達すると、こんどは海を越えて更に西進し、 ハワイ の王朝を武力で併合しました( 1898年 )
リリウオカラニ女王 別れの歌として有名な ハワイの アロハ ・ オエ ( Aloha`Oe) がありますが、
この名曲の作詞、作曲者は、ハワイ王朝最後の女王であった リリウオカラニ ( Liluokalani、1838~1917 年 )です。
米国の軍艦 ボストンと上陸した 164 名の海兵隊の威嚇のもとで
ハワイに利権を持つ米国の白人達により組織され
米国への合併を意図した 1893 年 2 月の クーデターにより
女王は イオラニ宮殿宮殿に近い ワシントン ・ プレイスに幽閉されました。
そして脅迫により無理矢理退位させられた結果、 カメハメハ大王 を始祖として
1795 年に始まった立憲君主制の ハワイ王朝は消滅し、その領土を アメリカに奪われました。
この哀調と郷愁に満ちた曲を聴くと、20 数年の失意のうちに生涯を閉じた女王の悲哀を感じさせられます。
>>44
次ぎにアメリカは、
スペインの無敵艦隊 が英国との海戦に敗北した ( 1588 年 )のを契機に、
海洋における支配権を失い国力 が衰退した スペインとの間に、
キューバの スペインからの独立をからんで、米西戦争 ( 1899 年 )を仕掛けて勝利しました。
その結果 スペインの植民地であった フィリピン、グアム、ウエーク、サモア、プエルトリコ を アメリカ領土とすることに成功し、
これにより ハワイ以西における西進主義の、アジアに対する拠点作りに成功しました。
その次には 中国 に狙いを定めて、すでに欧州諸国により行われていた
植民地獲得競争に 遅れて来た植民地帝国 として参加し、権益を求めて
「 門戸開放 」、「 機会均等 」、「 領土保全 」を主張して積極的に進出しました。
そこで日清戦争 ( 1894 年 )、日露戦争 ( 1904 年 )を経て、
中国に対して精力的に進出していた日本と、 権益の獲得、分配をめぐり 遂に衝突したのでした。
国内で ( インデアンから )土地の収奪をした アメリカは、外へ向かっても フィリバスター ( 不法侵略者 ) を繰り広げた。
1842 年の テキサス 独立、さらに連邦によるその併合、続いて メキシコ戦争。
現在の アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、 ネヴァダ はこうして米国の領土となった。
さらに メキシコからの カリフォルニ ア の強奪と、目まぐるしく侵略し領土を拡大した。
>>45
[ 大東亜戦争の原因 ]
国連加盟国の数は現在 ( 平成 23 年現在 ) 194 箇国 ありますが、
そのうち アジア、アフリカだけでも 100 箇国以上 にも及びます。
しかし太平洋戦争 ( 当時は大東亜戦争と呼びました ) 開戦の昭和 16 年 ( 1941 年 ) 当時の
アジアにおける独立国は、驚くなかれ 日本を除けば タイ 国の たった 1 箇国 しか存在しませんでした。
さらに第 1 次世界大戦開始時の大正 3年 ( 1914 年 ) 当時、
地球上の陸地の 84 パーセント は、人口比率で僅か 15 パーセントに過ぎない白人国家が支配していました。
日本も弱肉強食の時代に 植民地を持つか、
朝鮮半島にまで勢力を及ぼし始めた ロシアの支配地 にされるかの瀬戸際でしたが朝鮮半島の支配をめぐり
日清 ・ 日露戦争に勝利し、ロシアの悲願であった冬でも凍らない 不凍港を求める南下政策 を打破しました。
>>52
アフリカ分割
広大な アフリカ大陸は
植民地帝国主義、侵略主義の欧州 7 ヶ国 ( イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、ベルギー ) により
25 以上もの植民地、地域に分割支配され 、
ここでも独立国は、 エチオピア、南ア連邦、リベリア の僅か 3 箇国 にしか過ぎませんでした。
( なお南ア連邦については、1941 年当時 英連邦に所属する自治政府があったので、一応独立国に入れました。)
つまり大東亜戦争開戦 ( 1941 年 )当時、
アジアと アフリカ 全土に存在した独立国の数は、前述した日本と タイを含めて
僅か 5 箇国でした。
占領軍から教え込まれた東京裁判史観や、左翼 イデオロギーに偏向した教科書では 決して教えない 、
世界史の 真実 を貴方は知っていましたか?
1997 年の ホンコン 返還を初め、インド ・ パキスタン ・ バングラデシュ ・ インドネシア ・
シンガポール ・ マレーシア ・ ビルマ ・ ベトナム ・ フィリピン などが、西欧の植民地支配から独立した年を、
1940 年代以降を、自分で調べてごらんなさい
なぜこれほどまでに、独立国が少なかったのでしょうか?
ヨーロッパの帝国主義諸国により アジア と アフリカ が侵略され、植民地化されていたからでした 。
>>53
もし日露戦争 ( 1904~05 年 )に日本が敗れたならば、
日本も ロシアの領土か植民地にされていた事は間違いありません。
侵略主義に汚れた過去を持つ欧米諸国にとって、また日本を貶 めようとする反日左翼主義者にとって、
非常に都合が 悪い 白人種 による アジア侵略の実態こそが 、 大東亜戦争の原因 とは何かを考え、議論する際の出発点なのです。
さらに付け加えると 歴史観の形成 に必要なことは、
他人や マスコミの発言 ・ 新聞 ・ 書物に書いてあることを無批判に盲信するのではなく、
疑いの眼をもって自分自身で資料を調べ、最も合理的と思われる結論を導き出すことです。
>>55
[ 戦争を仕掛けたのは日本か米国か ]
(黄禍論とレインボー計画
日清戦争(1894~1895 年 )当時、ドイツ皇帝 ウイルヘルム二世 ( 1859~1941 年 ) は
黄色人種( 具体的には日本人 ) の進出によって、
今後白色人種に災禍がもたらされるとする 黄禍論 ( Yellow Peril )を唱えましたが、
これが白人諸国に広がり、白人社会に存在した有色人種に対する警戒感を造成しました。
続く日露戦争 ( 1904~05年 )では、
国際社会の 99 パーセントが大国 ロシアの勝利を予想したにもかかわらず
アジアの小国日本が勝利を収めたことが契機となり、
アメリカは日本が白人による世界支配体制を脅かし、
将来前述した 西進主義 に大きな障害になるとして 仮想敵国 とみなすようになりました。
それ以後対日戦争計画 ( War Plan Orange 、オレンジ計画 )を策定しましたが
この オレンジ計画は兵器の発達進歩に合わせて何度も内容が更新されました。
しかし昭和16年 (1941年 )9月27日に、日、独、伊の三国同盟が成立し
三国との戦争が予想される事態になると、米国の戦略は国ごとの戦争計画を一色で表すのを止めにして
新たな戦争計画を 「 レインボー 5 」 と名付けるようになりました。
それによれば日米開戦の場合に取るべき米国の作戦は
アメリカ艦隊により日本周辺の海上封鎖をおこない、海外からの物資の輸入を絶ち
沖縄を占領し、空襲により日本国内の生産設備を破壊して継戦能力を失わせ、本土を孤立させて降伏させるというものでした。
そのための布石として米国は ハワイと フィリピンの マニラ ( スービック湾 ) に海軍基地を建設し、海軍力の増強を図りました。
>>1 海洋同盟関係国にどういう見方されているか考えたほうが良い特亜制限強める
米国とは多国籍や地勢の偏りが強い状況なのにセキュリティ的思考は日本には全く無い。
>>1
江戸時代が最も平和で日本人が最も日本人らしく暮らせた期間だな
『平和の海の江戸システム』(川勝平太氏の海洋史観
ヨーロッパ人が、他の大陸の土地と人間を暴力的に収奪して、
豊かさを手に入れたのに対し、
日本人は「自力で栄えるこの肥沃な大地」を築き上げた。
それはどのようなアプローチで可能だったのだろうか。
ヨーロッパは、アフリカから移送した黒人を
アメリカ大陸のプランテーションで働かせて綿花を栽培し、
それをイギリスの紡績機で綿布に仕上げるという三角貿易で、
綿布の自給体制を作り上げた。これが産業革命の契機となった。
こうして、ユーラシア大陸の両端、
木綿生産の最後進国であったイギリスと日本は、
19世紀を迎える頃には、綿業の最先進国になっていた。
ただそのアプローチは、あまりにも対照的であった。
>>87
■平和の配当による高度成長
徳川幕府は、当初、豊臣政権の「七公三民(収入の7割を税徴収)」
の税率を踏襲したのだが、それらは城下町の建設、陸路・海路の交通網整備、
河川堤防の建設、新田の造成など、大規模な社会インフラ整備に使われた。
そしてそれらが終わるとただちに、大減税を敢行した。
四代将軍家綱の元禄の頃には、「三公七民」と逆転していた。
いわば、戦国時代の後の「平和の配当」である。
上述した四大商品の国産化成功ともあいまって、我が国は空前の高度成長期に突入した。
江戸幕府創設の直前、1600年の日本の人口は1200万人だったのが、
1721年には3100万人と2.6倍にもなった。
生活水準も向上し、平均寿命が延びた。
>>88
この間の耕地は、225万ヘクタールから296万ヘクタールへと、
1.3倍となっている。1.3倍の土地で、2.6倍の人口を養っていたのだから、土地生産性は2倍となったと言える。
生活水準の向上を加味すれば、それ以上だ。
新大陸など他人の土地を欲しいままに
占有・収奪した近代世界システムに対して、
江戸システムは限られた国内の土地を最高度に活用したのである。
歴史の教科書には、
江戸時代に飢饉ばかりが続いたかのように記述しているが、
それは江戸時代の後半、人口が3000万を超えて列島の収容能力限界に達し、
また米作が北限の東北地方まで普及していた所に、
気候寒冷化が襲ったためである。
飢饉を階級的搾取の結果とするマルクス主義史観では、
前期の高度成長も、庶民の豊かな暮らしぶりも説明できない。
>>89
■汗と知恵による勤勉革命
江戸システムで土地生産性が大幅に向上したのは、
より多くの汗と知恵の投入の結果である。
飼料のために広い土地を必要とする牛馬を減らし、人力で代替した。
そのために土地や作業にあった鍬などの農具が開発された。
また都市部の*尿や生ゴミが農村に貫流されて、
肥料として利用されるというリサイクルシステムを確立した。
これにより衛生的な都市生活と、農業生産性向上を両立させる事ができた。
さまざまな創意工夫は多くの農書にまとめられ、各地に広められた。
それを読むために、一般民衆の就学率、識字率は
ヨーロッパ諸国に比べても段違いに高い水準となった。
勤勉と教育を尊び、ものを大切にする我が国の文化特性は、
江戸システムの発展を通じて、形成されたのである。
ヨーロッパの産業革命(Industrial revolution)に対して、
日本は勤勉革命(Industrious revolution)を行ったと称されている。
>>1
これって個人投資家も関係するの?
>>1
まぁ当然の結果やな。
習を国賓で呼ぶとかいう愚行を行ってんだから。
歩調っていつ日本がアメリカに合わせたよ?
アメリカは台湾や香港にも目を向けてるってのに、
日本は中国に忖度して何も*ぇじゃん。
そりゃこうなるわ。台湾にも愛想尽かされて終わるやろ。
理由はなんなんだろ?
>>15
米軍の「おもてなし予算増額」ねらい
>>64
これ。
あと、農民票取るのに話するのも便利。
アベは一声掛ければ金を出すし、民間に物も買わせると思われたから、あとは範囲を広げようと思われる。
害交の安倍(笑)
>>18
うまい!座布団100枚
ここで汚い言葉書き込んでる人ってサヨクなんでしょ?
ネトウヨとやってる事が何も変わらないね
>>26
で安倍ちゃんどーするの?
こりゃまた韓国に*にされるわwww
>>27
それは無い。
理由は、韓国は最初から外されているからだ。
>>34
後から外された方がダメージがでかいような
安保関係ないしスパイも全然関係ない、世界は日本を途上国だと認定し始めてるんだよ。
もうG7には呼んで貰えないかもな。これからはG20として遠慮しながら頑張ろう。
>>42
G20も怪しい
安倍ちゃんは習近平様を国賓としてお迎えして、大歓迎します。
>>72
八紘一宇と五族協和で大東亜共栄圏の復活だな
>>72
中国人観光客も大歓迎です
コメントする